1965年の明日、僕は市川市で生まれました。生まれたときしばらく左目が開いておらずかなり両親を心配させております。その後49年間続く、両親に心配かける人生の最初の一発はウインクの練習でした。命名は父方の祖父で、知り合いのお坊さんにたくさんリストアップしてもらった中から「伸一」を選んだって聞いてます。当時の写真を見ると体が小さかったからかそれともただ単に両親の願望からか数年はまるで女の子のような格好で育てられたようです。髪型もおかっぱだった気がする。4歳の時に弟が生まれてくれなかったら今頃どうなっていただろうかね。父方は既に僕の上に3人の従兄姉が生まれてたので恐らくそんなでもなかったろうけど、5人兄弟の第一子長女だった母の方は初孫でしたので当時熊本にいた祖父母は相当喜んだことだろうと思います。というかそうであって欲しいというか。なんにしても相当可愛かったであろう赤ちゃんが49年も経つとこんなおっさんになってしまうとはね。気持ちはいつまでも可愛い赤ちゃんなんだけどね。うそですからね。そんなことばっかり言ってるからいつまでも両親に心配かけるんだよな。49歳の時の父はと言えば30年ほど勤めた会社を辞めて自分で不動産業を始めた頃かな。息子である僕は大学院に進学してたね。僕とは全然違うね。父は自分も起業してるからきっと僕の独立に対しては反対は無かったんじゃないかね。よく、何で跡を継がなかったのかって聞かれるんだけど、そりゃ無理ってもんです。父と僕とでは全くと言っていいほどキャラが違います。会えば納得してくれることでしょう。敵に回したらこれほど厄介な人はいないんじゃないかって未だに親子で良かったって心底思いますもん。だけど家では甘々でして未だに母には勝てないけどね。母は肥後もっこすって言うんですかね、気丈な人でして、僕ら子ども達にとってはむしろこちらの方が怖かったですね。ちょっと悪さするとフトンタタキで太股を叩かれてみみず腫れなんてのはしょっちゅうでした。ううむ話が収拾つかん。オチが思いつかないというか。まあとにかく60歳までようやくあと11年だ。そういうことで。ごきげんよう。さようなら。