2024年 12月 31日
ウエガイト建築設計事務所のWhat's New
鮫川村村民保養施設さぎり荘(2011)撮影;傍島利浩
NASCA+Partnersとして設計に参加した同志社香里中学校・高等学校メディアセンター繋真館が2023年日本建築学会作品選奨に選ばれました。筆頭設計者の八木佐千子さん、構造設計者の満田衛資さんと連名でいただきました。
浅草橋の老舗扇子店松根屋店舗の写真をアップしました。(2014.9.4)
アイデアコンペ第2回SRF賞専門部門佳作を頂きました。(2014.3.15)
村民保養施設さぎり荘が第30回福島県建築文化賞復興賞を受賞しました。(2013.12.21)
雑誌KJ2013年12月号に前田産科婦人科医院が掲載されました。(2013.11.15)
最新作Lebenschaft Projekt完成披露会のお知らせをアップしました。(2013.10.26)
近作悠楽里えどがわエントランス改修の写真をアップしました。(2013.6.19)
近作野木の家の写真をアップしました。(2013.6.1)
近作Lebenschaft Projekt I(前田産科婦人科医院)の写真をアップしました。(2013.5.28)
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建築とか設計とかとはあまり関係ないというかむしろどうでもいいことが多いんですが、宜しかったら以下(↓)の上垣内個人のブログもお楽しみ下さい。いやほんとすみません。
2024年 01月 04日
今日は長いですと激動の2023年と寂しい
2024年は元日から毎日のようにショッキングなニュースが続いてるので書き出しにくいんだけど昨年一年が我が家にとってかなり激動だったためここに記録しておこうと思う次第。とにかく色々なことが起こってしかもそれらが複雑に絡み合っているもんだから順を追って書いていこうと思うんだけどまずは昨年最大の出来事として母の死があったことを記す。2023年12月15日午前01:10、享年83。
さて2023年の我が家はまず1/28の自宅引越しから始まる。実に14年ぶりに墨田区東向島から台東区根岸へ前年12月突然の決断からバタバタと物件決めて殆ど勢いで実行。2009年の経営危機で不思議な木造賃貸に引っ越して以来ようやく普通の人の暮らしというか11階建マンションの3階への引っ越しと相成りました。なんでここでわざわざ階数まで書くかというとこの住戸にこの後不具合が見つかり同じマンションの5階に空いてた別住戸にもう一度引っ越すことになるから。14年ぶりにマンションへの引っ越しを成し遂げて(笑)必死の思いで荷物を片付け終わった3月下旬、管理会社に不具合の相談をしたときはまさかまた引っ越しする羽目になるとは思ってもみなかったんだけど結局GWに3階の部屋から5階に再引っ越し、これによって郵便の転送サービスがややこしくなり恐らく最初の部屋番号でお知らせしていた方々には今年の年賀状が戻ってきてしまうというトラブルになっていると思われます。申し訳ございません。一方兄弟妹3人とも出てしまい両親二人だけになっていた越谷市の実家、このままだとそのうち両親が亡くなったら処分もままならず問題空き家になる可能性が濃厚なことから元気なうちに処分してくれとコロナ前から3人して父を説得をし続けていたんだけどここにきてようやく好条件で買ってくれる人が見つかったことで事態が動き出すことになる。3月下旬に次女ハッパの進級展が偶然新しい自宅の近所で開かれたことから両親が展示を見がてら新居を見にきてこのときから思い切って根岸に両親も移って来てしまってはどうかという話が浮上しマンション内の空き家チェックが始まるがなんと再引っ越しした5階の部屋のお隣がまるでうちの入居に合わせるかのように偶然退去するという事態に至りそこにすわ両親が引っ越してくるかまじかいきなりの隣居かよなんてなったわけです。ところが10月末になったら10階に部屋が空くという情報をキャッチし逡巡しはじめる。こっちの方が5階より広いし眺めも良いからね。我が家としても真隣りより適度な距離があった方が暮らしやすいよなということでこの線で両親の引っ越しを調整し始めることになった。この時点で越谷の実家売却話はどんどん進んでおり引き渡しが9月末で決定していたんだけど根岸の10階は10月末じゃないと入れないため二人には1ヶ月仮住まいしてもらうことで草加に仮住まい先まで見つけて実家の荷物整理に入った。とにかく越谷の家も30年住んでたからそりゃあもう荷物が山ほどあって大半を処分しないととてもマンションには持っていけないと8月から大阪に住む弟も毎週のように来てくれて皆んなで粗大ゴミを出してそれとは別に産廃業者にも8月末と9月末の2回も来てもらって捨てるだけ捨てようと準備してた9月の頭に母が腹部に張りと痛みを感じてかかりつけ医に診てもらったところ大きい病院に行くよう言われ9/4に新越谷の獨協医大病院に。翌日病院から電話ですぐにでも病院に来るようにとの連絡に翌9/6に僕も両親について3人で病院に行ったらまさかの癌宣告。むしろ数年前から弱ってきて救急車騒ぎも起こしていた父じゃなく8月も元気に荷造りをしてた母が何で???となったわけだけどまずは検査のためにお腹に腹腔鏡を入れる手術をするとのことで9/11に入院し翌9/12に手術となった。それまではまあまだ普通に喋って歩いてた母がこの日を境に徐々に弱り始め、その週の週末には一旦退院できると言われてたのが発熱や不調から退院できずそのまま入院継続、もちろんこの間病院はコロナ対策のため面会は一切できず。そうこうしているうちに9/19に病院から僕の携帯に呼び出しの電話が入り、父と向かうと母も同席で主治医から腸管に穿孔が発覚との説明で緊急手術。この頃から父の老いが目立ち出し母のことでよく泣くようになる。ちなみにこの時点では母は要支援1だったのに対し父は要介護1だったがその後母は要介護3に身体障害者4級に。こんな状態なのでとても二人で仮住まいなんてできるはずはなく父を根岸に呼んで10階が空く10月末まで同居することとし実家は9/25に売却、なんせ狭い住戸なので押し出されるようにカミさんとハッパが近所のマンスリーマンション住まいとなる羽目に。このひと月はほんと色々大変だった。並行して両親の転居手続きやら介護保険手続きとあちこち回ってたのと、母が延命治療ではなく緩和ケアを望むという強い意志を示していたことから獨協病院の主治医や相談員の方と転院先の模索を始める。元々父の新しい主治医探しで上野の永寿総合病院に当たりをつけていた矢先だったのでここに緩和ケア病棟があることを知り打診、順番待ち状態にあることがわかる。住まいに続いてまたかよ、だ。10月中に転院できることを期待して待つが依然として空く気配なしのまま10/20にまず家族面談で父・妹と永寿へ行く。そうこうしているうちに10階の部屋が空き10/21に父の本引っ越しとカミさん・ハッパの帰還。父の新しい暮らしが始まった10月下旬、永寿の先生から連絡で緩和ケア病棟がなかなか空かないのでまずは一般病棟に転院してもらい緩和ケア病棟が空き次第病棟を移るということで11/2に獨協医大病院から永寿総合病院に転院する。まだこの頃は母もスマホでLINEしたり電話したりできててよく電話もかかってきた。永寿総合病院の緩和ケア病棟はさすが穏やかに終末を迎えられるところだけに面会も制限はあるものの毎日OKでようやく父も会えるようになって少し落ち着く。転院前からコーヒーが飲みたいと言ってて永寿では週一でカフェタイムがあることを聞いて楽しみにしてたんだけどこれが実現するのは11月の終わり頃だったかな。1回だけ。緩和ケア病棟は療養型ではないので2ヶ月間しか連続して入院できないとのことで11月中旬になると退院のタイミングを模索し出す。一方病状は治療をしていないので改善するはずもなく徐々に弱っていっているのがわかるようになる。僕らも緩和ケアを納得ずくで選んだのだからわかってはいたんだけど、心のどこかでやっぱり奇跡みたいなことを欲してしまう。最初12/11あたりで一旦退院して規定の中7日間を経て再入院という筋を書いていたが母の状態を見た主治医の先生から早めることを勧められ、12/4が誕生日ということもあってその前の土日で僕らもいられるからと12/1の金曜に退院した。この時点では母は話すことも介添え付きで歩くこともできたしトイレも自力でできてたので穏やかに新居で過ごせるだろうと思って急いでケアマネを決めて介護用品を揃えて母を迎えた。12/2には弟も上京し4には家族揃って母の83歳の誕生日を祝うことになっていた。んだけどここでなんと僕がインフルエンザに罹患。最悪だ。せっかく母が帰ってきているのに会うこともできず5階の自宅で隔離、弟はその煽りで帰阪できずリモートで仕事をすることに。余談だけどコロナのおかげでこの選択肢ができたのは本当にありがたい。そんななか僕が隔離状態で何も役に立たない間に母の病状が悪化しベッドから離れられなくなる。ようやく会っても良いようになった12/8頃には今度は連日の徹夜に近い介護で弟が発熱し帰阪、母は週明け12/11の再入院となる。母は楽しみにしていた新居での生活をなんとか11日間だけだけど実現できた。この間耳が悪い父とのコミュニケーション用に小さいホワイトボードで筆談をしてたんだけど、僕が側にいた最後の朝に書いたメッセージ「今日はスパゲッティを少しと、コーヒーにして下さい。」で早朝から皆んな起こしてスパゲティ作ってコーヒー入れてとドタバタした。でも結局母は口にすることができずだった。弱っているのが誰の目にも明らかだったので管理された病室の方が安心だからきっと再入院したら持ち直すと期待したんだけど12/14早朝に病院から危篤との連絡入り急行、この日は丸一日病院に詰めたんだけど17時で一人を残して退出しなければならず弟に残ってもらいあとは帰宅、夜中の12時過ぎには状況落ち着いているので自分も仮眠するとの弟からの連絡で安心していた矢先、1:10に息を引き取ったとの連絡で再び病院に急行。2:06当直医による死亡診断。事前に打診していた葬儀社に連絡して病院にて迎えを待つ。5時前に迎えがきて仮決めとなった町屋斎場に安置してもらうことに。この日僕はどうしても欠席できない予定が詰まっており仮眠してから午前中JIA、午後はインフルエンザで休講した補講で学校へ行く。淡々とこなす自分に少し嫌になるが仕方ない。住職と斎場、式場の都合から12/17通夜12/18告別式と決まり、生前の母の強い意向から親族と母の友人だけの家族葬とする。年末の不幸だったためいろんなことが年内には間に合わずでなんとも中途半端な状態のまま2024年を迎えることとなった。一年前はとてもこの状態を想像してすらいなかったので自宅引っ越しと再引っ越し、実家の売却と引っ越し、母のこと、どれをとっても順番が違ってたらいったいどうなってしまっていたんだろうと思うくらい不思議と絡み合っている。そしていまは父と一緒に暮らしているだなんて。実家を出た27の頃から30年以上一緒にいなかったから父が思いのほか綺麗好きだとかも知らなかった。父も僕が料理できることを知らなかったと言って感心してるし。しかしこうして文字に起こしてみるともっと色々あったはずなのにこんなもんだったのかとか思ったりするな。コウメが就職内定したのはいつだったっけな。あれも大騒ぎだった。そのコウメがいよいよ春には群馬から帰ってくる。どうなることやら。母も天国ではらはらしているのではないかな。
2023年 11月 01日
蔵前と20年と生きてます
今日で蔵前に事務所を移して満20年となりました。20年。うーんすごいね。2歳だったコウメが大学4年生で生後8ヶ月だったハッパが大学2年生なんだからね。経営は相変わらずの低空飛行だけどまあなんとかやれてる。親分たちが創立20年のお祝いを麻布温泉で盛大に開いたことを思うとやっぱり小粒化は否めないけどまあやれてるってことで自分を褒めてやろう。それにしても僕の40代は耐震強度偽装事件で始まっていきなり前代未聞の厳しい時代となってしまってそのままリーマンショックと本当にしんどかった。そんな徳川家康並みの苦難に押しつぶされそうになった時に精神的に支えとなってくれたのは浅草の皆さんでした。素敵な友人たちに恵まれて20年経ったいま改めて蔵前に来て良かったと思います。その蔵前、移ってきた頃は正面にガンプラが箱積みで並ぶイリサワもドラマの撮影によく使われてた銭湯梅の湯も昼ご飯たまに食べたレトロな寿司屋もぜーんぶあっさりマンションに変わってしまった。僕らが勝手にあべちゃんと呼んでいた(何故かは思い出せない)居酒屋ももせもアパートになっちゃった。そしていつの間にか東東京を代表するオサレな街になったんだそうです。知らんけど。土日に人っこ一人歩いてないなかで仕事してた頃がたまに懐かしくなったりするあたりやっぱり臍曲がりなのだろうかね。
2023年 09月 04日
時間よ止まれと人間だものとだわな
2023年 01月 02日